ねむり

「眠りはひとそれぞれでいい」 不眠が慢性化してしまってからようやく重い腰を上げ医院に通うようになった私に向けて、ある日、医師が口にしたその一言は新鮮な響きがあった。眠りに個人差があることはそれまでも頭ではわかっていた。

しかし、実際に私が思い描いてきたのはあくまで、夜、布団に入ったらただちに入眠できて、そのままぐっすり8時間が「理想の睡眠」であって、たとえばそれは若い頃に味わったような熟睡の記憶を持ち出してのことだったり、またあるいは世間で語られがちな「よい睡眠のパターン」が背景にあってのことだったりで、必ずしも私自身の現実やライフスタイルに根ざした「理想」というわけではなかった。

聞けば、よく語られる「8時間睡眠がいい」というのも科学的根拠があることではないそうで、確かに私の周囲には毎日4,5時間程度の睡眠でも不満は感じず、かつ肉体的にも問題なく暮らしているひとが何人もいる。つまり睡眠とはその要求度も含めて十人十色、同じひとりの人間でも年齢や生活環境などによって変化していくというし、要は自分に合う「眠りのスタイル」のようなものを見つければいいということなのだろう。

思えば私は、どこかの女性誌の見出しじゃないけれど、「自分らしい生き方」を追求することは大事にしても、「自分らしい眠り」などということを意識したことはなかった。私は時間の自由がきく仕事なのだから、もう少しフレキシブルに眠りをとらえてもよかったのだ。私の眠りを不自由にしてきたもの、それは案外、私が思い込んできた「理想の睡眠」に縛られていたせいかもしれない。


医師の言葉をきっかけに、私は自分の不眠のその周縁に知らぬ間に溜まっていた澱のようなものに気づくことになる。医師から処方される薬も固定され、少しずつ睡眠が安定しつつあったので、精神的な余裕が出た証拠かもしれなかった。

服薬と「がんばらない」自律訓練の練習が「さりげなく」進んでいくなか、次第に私の眠りに変化が出てきた。


いつしか昼寝を日課にするようになっていったのだ。以前から医師には「夜の眠りが足りないなら昼寝をとったらどう?」といわれていたものの、習慣がなかったからか眠気を感じることはあってもなかなか昼寝には至らなかった。

ところが、ある昼下がり、床にごろんと転がるとすーっと眠っていた。小1時間だったがそれがすこぶる気持ちがよかった。


一般的に昼寝は30分を越えない程度の時間がその後の活動を快活にするといわれている。それ以上になると眠りが深くなってしまうので起きたときにぼんやりしたり、また昼寝をとる時間帯によっては却って夜の睡眠に支障をきたしてしまうこともあるらしいが、この際そういったことはカッコでくくることにした。


私の場合、昼寝を夜の足りない睡眠の埋め合わせ的な眠りと考えれば長めでも悪くないはずだし、なにより心地よさが優先だ。生活に支障がない限り、どうやって寝たっていいのだ。

ヒトの睡眠は生活上、夜にまとめて眠ることが一般的になっているが、動物界全体から見るとそれは特異なパターンで、分散して睡眠をとるのがほとんどの動物の眠り方である。


また意識されることは少ないが、その「夜にまとめて寝る」というのも先進工業国に求められた効率のよい覚醒のための合理的な睡眠パターンであって、一部の国のある年齢の人たちの眠りにすぎない。

自由業の私にはどうやら動物的な分散寝が合っていたらしく、以来、眠りへのプレッシャーも随分と取り除かれた。ようやく「自分らしい眠り」のスタートラインに立ったのかもしれなかった。


一方、医師に習っていた自律訓練は、自宅での練習を続けるうちそれがそのまま布団に入るときの儀式のようなものになった。医者に通いはじめてから半年が経過していた。

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